相続業務を「AI前提」で再設計する:戸籍収集・財産目録・協議書作成の工数から解放するための業務設計
─ 複雑な書類処理はAIに任せ、弁護士・スタッフが「調整と判断」に集中できる構造をつくる ─
相続案件の問い合わせは増えている。しかし、受任できる件数が増えていない。
2024年4月に施行された相続登記の義務化(不動産登記法改正)により、これまで先送りにされていた相続手続きが動き始めています。複数世代にわたる未登記不動産、離散した相続人の特定、複雑に絡み合った財産関係——こうした案件は弁護士でないと対応が難しいケースも多く、法律事務所への相談が増えています。
しかし現場では、こんな声が聞かれます。「戸籍集めだけで数週間。もっと本質的な業務に時間を使いたいのに」「初期整理に時間がかかりすぎて、受任数を増やしきれない」。
問い合わせは増えているのに、処理能力がボトルネックになって受任できない。この構造的なギャップが、相続業務にも存在しています。
この記事では、相続業務にAIを導入して「何をどう変えるか」を、atarayoが法律事務所の支援現場で見てきた設計思想をもとに書いています。ツールの紹介ではなく、業務フローそのものの設計に焦点を当てます。
1. 何が起きているか:年間155万件、拡大し続ける相続市場と「処理能力の天井」
相続件数は年間約155万件、今後も増加が確実
日本の年間死亡者数は約155万人(2023年確定値、総務省統計局)。相続発生件数もほぼ同数で、高齢化の進行に伴いこの数字は今後さらに増加していきます。
家庭裁判所への遺産分割調停の申立件数は年間数千件から1万件超の水準で推移しており(司法統計年報)、1件あたりの審理期間は長いものでは1年を超えます。これらの紛争案件の多くで弁護士が関与します。
さらに追い風となっているのが法改正です。
2024年4月、相続登記の義務化が施行されました。 相続で取得した不動産は3年以内に相続登記が義務付けられ、違反した場合には10万円以下の過料が科されます(不動産登記法改正、法務省)。未登記不動産の解消を目的としたこの法改正は、これまで先送りにされていた相続手続きを動かすきっかけになっています。
複数世代にわたる未登記案件は、相続関係の確定から始まりますが、当事者が多く、関係者の所在が不明なケースも多い。こうした案件は書類の難易度が高く、弁護士でないと対応が難しいものも少なくありません。
さらに遡れば、2019年施行の相続法大改正(配偶者居住権の新設、自筆証書遺言の保管制度創設、遺留分の金銭化など)により、相続手続きの選択肢と複雑性が増し、専門家への相談ニーズが高まっています。市場は構造的に拡大しています。
現場は「手作業」のまま
案件を受任したあとの処理は依然として手作業に依存しています。相続業務の工数の大半は、次の3つの工程に集中しています。
第一に、戸籍の収集と相続人の確定。 被相続人の出生から死亡までの連続した戸籍を全て取り寄せる必要があります。出生地が複数にわたる場合や、離婚・再婚がある場合は取得先が増えます。郵送で請求するため数週間かかることも珍しくなく、集まった戸籍(旧式の縦書き手書き書体を含む)を読み解いて相続人を確定する作業は、事務員やパラリーガルが担うことが多いものの、書類の複雑さや旧字体・旧様式への対応が必要な場面では弁護士が関与することもあります。典型的な案件でもこの工程だけで数時間を要します。
第二に、財産目録の作成。 不動産(登記簿)、預貯金(残高証明書)、有価証券、保険、借入など財産の種類ごとに異なる書類を取り寄せ、一つずつ手作業で読み取って目録に起こす作業は、主に事務員・パラリーガルが担います。近年はデジタル資産(仮想通貨、オンライン口座、サブスクリプション等)の発見という新たな課題も加わっており、網羅的な財産の把握自体が難しくなっています。
第三に、法定相続分・遺留分の計算と協議書のドラフト作成。 相続人の構成(配偶者・子・親・兄弟姉妹など)や遺言の有無によって法定相続分の計算が変わります。特定の相続人への特別受益や寄与分がある場合は計算がさらに複雑になります。計算自体は事務員・パラリーガルが行うことも多いですが、内容の確認と法的判断は弁護士が担います。
典型的な案件でも初期整理だけで相当な工数を要し、紛争性が高い案件ではこれがさらに増加します。
2. なぜそうなるか:相続業務特有の「3つの構造的課題」
構造1:書類処理が「スタッフの時間」を使う設計になっている
相続業務の初期工程——戸籍の読み取り、財産の洗い出し、法定相続分の計算——は、主に事務員・パラリーガルが担う作業です。しかし弁護士もその確認・検算・修正に時間を取られるため、事務所全体として書類整理と手計算に投じる工数が大きくなっています。
この設計の問題は、「受任件数 = 事務所全体の処理能力」という上限が生まれることです。問い合わせを増やしても、書類整理の工数が変わらなければ受任枠は増えません。
構造2:旧式書類への依存
日本の戸籍は、昭和・大正・明治時代の手書き縦書きから始まり、平成のコンピュータ化まで、様式が複数存在します。旧字体・変体仮名が混在する旧式戸籍の読解は経験が必要で、新しいスタッフへの引き継ぎが困難です。この「読める人が限られる」という属人性が、処理能力の天井を作り出しています。
構造3:相続専門の業務AIがそもそも存在しない
日本のリーガルテック市場の中心は「契約レビュー」「電子契約」の領域です。相続業務の処理フローを効率化する専門的なAIプロダクトは、ほぼ存在しません。相続業務で扱うデータ(戸籍、財産情報、遺言、相続人の個人情報)は極めて機密性が高く外部クラウドに出しにくい。案件の個別性が高くSaaS化が困難。そして弁護士法72条(非弁行為の禁止)に抵触しない設計には、法務知識とAI設計の両方が必要です。
3. どう変えるか:相続業務を「AI-native」に設計し直す3つの原則
弊社が提案するのは、既存業務にAIを「足す」のではなく、AIを前提にフロー全体を設計し直すアプローチです。弊社はこれを「AI-native業務設計」と呼んでいます。
| 軸 | 従来のアプローチ | AI-native設計 |
|---|---|---|
| AI導入の位置づけ | 既存フローの「一部」をAI化 | フロー「全体」をAI前提で再設計 |
| 書類処理 | 手作業で読み取り・転記 | AI OCRで構造化データに変換 |
| 計算・シミュレーション | 手計算・手確認 | AIが複数パターンを瞬時に算出 |
| 弁護士・スタッフの役割 | 書類整理+法的判断 | 法的判断と依頼者への対応に集中 |
原則1:「独自データで独自AIを構築する」ことを起点にする
相続業務のボトルネックの入口は、バラバラな書類をAIが扱えるデータに変換する工程にあります。戸籍謄本・除籍謄本・改製原戸籍、不動産登記簿、預金残高証明書、証券残高報告書——これらは形式も様式も統一されていません。
ここで重要なのは、汎用AIをそのまま使うのではなく、事務所固有のデータを学習させた独自AIを構築するという発想です。汎用OCRは旧字体や縦書きの戸籍に対応できません。過去案件の戸籍読み取りデータ、訂正履歴、よく出てくる氏名・地名のパターンといった独自データを学習に活用することで、はじめて「相続業務で使えるAI」が成立します。
ただし、相続業務で扱うデータの取り扱いには十分な注意が必要です。 戸籍・財産情報・家族関係といったデータには、個人情報保護法上の要配慮個人情報に該当するものが含まれます。AI構築にあたっては、個人情報保護法のガイドライン(個人情報保護委員会)への準拠、データの取得・利用目的の明示、学習データの匿名化・仮名化処理、アクセス権限管理が前提条件です。日弁連の「弁護士情報セキュリティ規程」(2024年4月施行)も参照し、事務所としてのセキュリティポリシーを明確にしたうえでAI導入を進める必要があります。
AI-native設計では、この書類の構造化を起点に据えます。独自学習させたAI OCRが各種書類を読み取り、相続関係を示すデータ(被相続人・相続人の氏名・生没年・続柄・代襲の有無)を自動抽出する。財産書類からは種別・金額・金融機関名・不動産所在地等を自動で取得する。この構造化データが後工程の計算・ドラフト生成の基盤になります。
原則2:「判例・法制度知識」をAIに実装し、計算と初稿を自動生成する
構造化されたデータをもとに、AIは次の処理を自動化します。
- 相続関係図の自動生成:取得した相続人情報から家族関係図を自動で描画する。代襲相続も自動で処理します。
- 法定相続分・遺留分の自動計算:相続人の構成に応じた法定相続分と遺留分を自動算出。特別受益や寄与分がある場合のシミュレーション(複数パターンの比較)もAIが瞬時に出力します。
- 遺産分割協議書ドラフトの自動生成:財産目録と分割方針をインプットとして協議書のドラフトを自動生成する。事務所の書式テンプレートを学習させることで、修正の少ないドラフトが出力されます。
ここで設計上重要なのは、AIは一切の法的判断を行わないという原則です。計算結果・相続関係図・協議書ドラフトはすべて「参考情報」「下準備」の位置づけであり、内容の確認・修正・最終確定は必ず弁護士が行います。弁護士法72条(非弁行為の禁止)に抵触しないよう、AIが担う範囲(情報の収集・整理・計算・ドラフト生成)と弁護士が担う範囲(法的判断・依頼者への説明・合意形成)を設計段階から明確に分けることが基本要件です。
原則3:「人の役割を変える」ことで処理能力を拡大する
AI-native設計の目的は「人を減らす」ことではありません。弁護士・スタッフが本来集中すべき業務に時間を使えるようにすることです。
相続業務における付加価値の高い仕事は、書類の読み取りや計算にはありません。複数の相続人それぞれの意向を聞き、感情的に対立しやすい場面を調整し、全員が納得できる分割案を設計し、依頼者の不安に寄り添うこと——これが弁護士にしかできない仕事です。
AI-native設計では、書類処理・計算・初稿生成をAIが担い、弁護士が「AIが用意した材料をもとに法的判断を下し、依頼者と向き合う」という役割分担を実現します。弊社の類似領域(残業代請求業務)での実績では1件あたりの総工数を66%削減した事例があります。相続業務でも同様の構造的効率化が見込まれ、同じリソースで対応できる件数を大幅に拡大できます。
4. まとめ:「AIを入れる」から「AIを前提に設計する」へ
相続業務のAI活用を考えるとき、最初に問うべきは「どのAIツールを入れるか」ではなく、「この業務を、もしAIがあることを前提にゼロから設計するなら、どう設計するか」です。
2024年の相続登記義務化を筆頭に、法改正が相続需要を構造的に押し上げています。市場は拡大しています。しかし、処理能力がそのままでは受任件数は増えない。
戸籍収集・財産目録・協議書作成の工数をAIが担い、弁護士・スタッフが相続人間の調整と判断に集中できる体制をつくる。相続業務をAI前提で再設計することで、法律事務所が抱える「処理能力の天井」を超えることができます。
この記事の内容について、自事務所の状況と照らし合わせて話をしてみたい方は、お気軽にご連絡ください。

